防災・減災への指針 一人一話

2013年11月21日
災害時における情報の入手方法
東田中南自治区 防災防犯部長
宇佐美 等さん

情報入手のための手段の確保

(聞き手)
 発災時の行動を教えて頂けますか。

(宇佐美様)
地震の時は、近くのスーパーで買い物をしておりました。揺れが酷かったので、中で買い物をしていたお客さんは、慌てて外に飛び出して行きました。
外に出てからも地鳴りが長時間続いていましたので、これはかなり大きな地震だと思い、急いで自宅に戻りました。
帰る時に信号は止まっていましたが、交通渋滞まではしていなかったので、割と早く戻る事が出来ました。
私の自宅はマンション8階にあり、自宅には娘がいました。家具はほとんど倒れていませんでしたが、玄関の下駄箱がひっくり返り、その上に置いていた熱帯魚の水槽が下に落ちて割れていました。娘には幼稚園に通う子どもがおりましたが、安否確認が取れたという事でしたので、すぐに幼稚園に向かわせました。
家の中は思ったほど酷い状態ではなかったので、私はすぐに集会所へ向かいました。到着して、集会所の鍵を開け、避難して来た人たちが集まってくるのを待ちました。
幸い、集会所の中も大した被害はありませんでした。
何か起きた時のために、自主防災会という組織を設立していますので、すぐに、その拠点を集会所に立ち上げました。
当然電気などは点きませんので、防災倉庫から自家発電機を出して動かしました。自治会の備品でテレビがありましたので、テレビをつけて見ました。そうしている間にも、地区の住民やマンションの上層階に住んでいる人たちが、余震が心配だし、情報が全く得られないという事で何名か集まって来ました。

(聞き手)
その時の皆さんの様子というのは、どのような感じでしたか。

(宇佐美様)
建物への被害が少なかったので、特別慌てた様子は見られませんでした。ただ、余震が心配なことと電気が一斉に消えてしまい、テレビ等々で情報が何も得られないので不安がっておられました。
まずは情報を得ようという事で、皆でテレビを見ながら大きな地震だったと話をしていました。

(聞き手)
テレビで情報を見た時に、津波が来る事がわかったのでしょうか。

(宇佐美様)
その時はまだわかりませんでしたが、そのうちに津波が来るのではないかという話が出たので、この辺りも危ないだろうという判断をし、集まって来た人たちをここから歩いて2~3分の所にある高台に避難させました。
その後、テレビ等の報道でとても大きな津波が来るという事がわかりました。目の前に砂押川という川が流れていたので、そこの様子を見ながら避難した人たちを誘導しました。同時に、トランシーバーを使って、お互いの状況を確認しながら様子を見ていました。

(聞き手)
その時の川の様子はどうだったのでしょうか。

(宇佐美様)
猛烈な勢いで津波が上がって来て、船やタンクローリー車などが流されて来るのを目にしました。ちょうど川も氾濫しそうなほどに水位が上がっていたので、これは危ないと思って集会場を完全に閉めきり、住民の人たちの誘導を徹底しました。

(聞き手)
高台というのは、どちらになりますか。

(宇佐美様)
すぐ裏手の山側になります。

(聞き手)
そこは一時避難場所になっているのでしょうか。

(宇佐美様)
一般の住宅が建っている場所です。

(聞き手)
その時には、大体何名くらいの方がいらっしゃいましたか。

(宇佐美様)
20~30名だったと思います。

(聞き手)
津波が来てからは、どのような行動をされたのでしょうか。

(宇佐美様)
第一波の津波が引いたので、避難していた人たちが集会場へ戻って来ました。
そこに、海岸の方で津波に遭った人や、仙台港付近の工場地帯で仕事をしていた人たちが、避難して来られましたが、今度は第二波が来るという事で、市の広報車が回って来たので、集会所は開けずに、高台に避難する人は避難し、高台に自宅がある人は自宅に待機する事にしました。

停電と鉄道の踏切・遮断機の問題

(聞き手)
この辺りは、津波被害はどうだったのでしょうか。

(宇佐美様)
この辺りには津波被害はなく、地区自体に混乱は見られませんでした。問題は道路の交通網です。ちょうど国道に出る道があるのですが、そこが水浸しで車が通れず渋滞していました。
通れる道は迂回する車などで混雑していました。
付近の仙石線が交差する道は、遮断機が壊れて車が通れない状態だったので、交通渋滞にさらに拍車をかけていました。そのような状況になっていたので、出来るだけ交通渋滞を起こさないように交通整理を地区の担当者何名かで行いました。

(聞き手)
だんだん日が暮れて夜になり、何か困った事などありましたか。

(宇佐美様)
灯りですね。たまたま備品で行灯を持っていたので、自家発電機を使って灯りを確保しました。何名か集会場に仮宿泊したいという人がいましたので、その人たちのために耐寒用のマットなどを準備してあげました。

(聞き手)
その時は、何名くらいいらっしゃいましたか。

(宇佐美様)
ここに泊まった人たちは10名くらいでした。後は、自治会の担当役員が10名ほどです。

(聞き手)
 多賀城の住歴と、この地区の年齢構成を教えてください。

(宇佐美様)
多賀城市に移り住んで30年になります。
生まれは他の地区になります。
具体的な数字はわかりませんが、この地区の年齢構成は高齢者が多いと思います。ここは集合住宅ですから転勤族の人や、他の地区から来てこの場を拠点に勤めに出ている人が多いと思います。ですから、地元の人というのは少ないように感じます。

(聞き手)
 チリ津波や宮城県沖地震、水害などを経験された事はありますか。

(宇佐美様)
チリ津波については、小さい頃に、知り合いで被害にあった方がいたという話を聞きました。宮城県沖地震の時は仙台に住んでいまして、会社にいた時に地震が起こりました。その後、得意先を廻って安否を確認した記憶があります。

水害の経験に基づいた備え

(聞き手)
多賀城市では水害が多いと聞きましたが、実際はどうでしょうか。

(宇佐美様)
昭和61年に、いわゆる8.5水害がありました。
その時も地区に多量の水が来て、その対応をした事を覚えています。その頃は、地区の防災担当をしていなかったので、一般の住民として協力しました。
今から5年前に私が担当に変わってから地区で自主防災会を立ち上げ、ちょうど震災の1年前の秋に防災訓練を行いました。
内容は、炊き出し訓練、水の給水訓練、避難訓練です。
この訓練のお陰で、今回の災害の時には慌てず対応出来ましたし、備品などを充実させていたのでそれが役に立ったと思っています。

(聞き手)
自宅での備えや対策などはどのようにしていたのでしょうか。

(宇佐美様)
地震が一番心配でしたので、家具に倒壊防止の器具を取り付けたり、非常時の持ち出しバックを用意したり、携帯ラジオ等々を準備しました。

(聞き手)
 親や親戚などから、災害にまつわる教訓などは伝承されて来たのでしょうか。

(宇佐美様)
 いえ、そういうものは特にありません。

(聞き手)
何度か地震の体験をされたようですが、その都度、建物の被害はありましたか。

(宇佐美様)
家の中の家具倒壊などの建物被害は、あまりありませんでした。特に耐震構造の作りでもありませんが、建築基準法の耐震基準が変わった後に建てたので、その点は丈夫だと思っていました。ですから、震災前まではあまり危機感はなかったのです。

災害弱者を事前にリストアップしておいての支援活動

(聞き手)
 防災訓練と地区主催行事の実施状況について教えてください。

(宇佐美様)
防災訓練は年に1回実施しています。
地区行事については自治会の意見として、地域の住民との繋がりを重視しようという事で、いろいろな催し物をしています。
特にお祭りについては、年に1回の地区のお祭りの時に全住民に参加を促し、子どもさんたちを中心に楽しく参加して頂いています。
それから、震災前から災害時の支援制度を立ち上げて、震災時の手助けが必要な人や、援助が必要な人をリストアップしていました。
特に地区の民生委員さんが頑張ってくださって、地区の震災配慮者の把握を一生懸命にしていました。
そして、実際に震災が起こった時に、そのような人たちに支援活動を行ってきました。
震災前後の住民との繋がりは、個人的な意見として、そんなに変わらないと思います。
震災前から地区のまとまりを考えていろんな行事を行っており、繋がりは密にしていると思っています。

(聞き手)
平成25年11月4日に震災後初となった多賀城市総合防災訓練がありましたが、その時の様子はどうでしたか。

(宇佐美様)
この地区にはマンションが8棟ありまして、それぞれに自衛消防隊というものがあります。これは管理組合を主体にしています。そして、年に1回消防訓練をそれぞれ行います。ですから、平成25年11月4日も消防訓練を各棟で行いました。
その後、避難訓練という事で近くの公園に集まり、防災訓練を行いました。
訓練の内容ですが、多賀城消防署のご指導を受けまして、濃煙ハウスの避難体験やAEDの取り扱いについて訓練を受けました。
全体で200名の人たちに参加して頂きました。皆さん、きちんと訓練を行ってくれていたなと思いますし、子どもからお年寄りの方まで幅広く参加して頂きました。

(聞き手)
 多賀城市の今後の復旧・復興に向けての取り組みは、どのように感じられますか。

(宇佐美様)
市の会議などに出させて頂いた時に、復旧、復興の話を聞きますが、復旧関係はゆっくりしていると感じました。
というのも、海岸線の津波被害が大きかった場所の片付けがなかなか終わっていない状態だったからです。津波の被害後に街を歩きましたが、この世のものとは思えないような光景でした。
それから、夜に発電機で明かりを点けていたら、ある他の地区の方たちから、少し明る過ぎるという苦情を頂きました。
それとは逆に、少し明かりがないと心配だという方も中にはいらっしゃいます。
ですから、周囲の様子を見ながら明かりの強さを調整して過ごしていました。安全対策や防犯対策を考えると、明かりがある方が安全だと思ったので、明かりだけは一晩中灯していました。
復興に関しては、仮設住宅に住んでいる人たちに早く、新しい住まいを見つけてほしいと願っています。
私たちが震災後に炊き出し等を始めた時に、「商売をしていて食材が全部大丈夫だったから、皆さんでどうぞ」と、炊き出し用に食材を持って来てくださった方がいらっしゃいました。
その時に感謝の気持ちは伝えましたが、そういう人たちを見ていると、余計に早く住まいをどうにかしてほしいと思わされます。
また、多賀城市に応援へ来て頂いた方がたくさんいらっしゃいまして、感謝しています。

自助と公助を理解した対応、行動

(聞き手)
 震災を通じて、後世に伝えたい事や教訓はありますか。

(宇佐美様)
一番大事だと思うのは、自分を守るという事を一番に考えてほしいという事です。それにも色々な守り方があると思います。
例えば、住まいの家具の下敷きにならないように家具を固定する事や、常日頃から、家族と震災の時どうするか、どこで連絡をとるか、どこで落ち合うかというような事を話しあって決めておく事も必要です。  自分を守る自助が出来たら、今度は共助という事で、地区を守るという話を家族にしています。
公助はなかなか行き届かないものです。公の場も当然被害に遭います。それに、大勢の避難者を助けないといけませんので、公助にはできるだけ頼らないで、自助共助という事を教訓に考えています。

(聞き手)
防災防犯部長という観点から見て、伝えたい事というのはありますか。

(宇佐美様)
同じような事ですね。防災防犯部と言っても何かあったら集まって、防災防犯のために何かをするという事はなく、みんなで地区の防災防犯をどのようにしていくか考える事が主体になっています。
今回の震災対応ですが、自主防災会という地区の役員さんや、各棟の管理組合の皆さんと一緒になってしてきた事なので、特に個人としての大きな苦労はありませんでした。
震災後に、どうすれば地区の住民の人たちが安心して、震災を乗り切る事が出来るのかという事を考えながら、皆と協力し合って過ごしてきました。
例えば、ライフラインが止まると色々と不便が生じてきますが、その時は出来るだけ集会場を活用するようにしました。
携帯電話の充電をサービスしたり、指定の給水所に行かなくても少しでも水が手に入るようにしてあげたりなどの工夫をしました。
お子さんがいる人は、ミルク用のお湯を沸かすのも大変だろうと考え、集会場でお湯を沸かして提供しました。
落ち着いて来たら、やはりお風呂に入りたいという人もいらっしゃるので、お年寄りには洗髪のサービスをしたり、足浴の場を提供したりしていました。
救援物資も少しずつ集まって来るようになったので、食糧などを各棟に少しずつ分配するなど、皆で考えて行動してきました。

在宅避難者への支援と共助

(聞き手)
物資は在宅避難の人たちにも回って来ましたか。

(宇佐美様)
最初は入って来なかったので、地区の会長さんが先頭に立って市と折衝し、少し頂く事が出来ました。
炊き出し用の米や味噌や調味料といった物は、地区の住民の人たちに持ち寄って頂きました。
米などは、一声掛けたら何十キロと集まりましたので、それを炊き出しておにぎりを握りながら皆さんに配り歩きました。
お互いに助け合って出来た事だと思います。全体として共助の部分を見れば、頑張れた地域ではないかと思います。

災害時に情報を入手できる場の必要性

(聞き手)
 災害時の情報収集に関して、何か感じた事はありましたか。

(宇佐美様)
防災行政無線に関してですが、周りで聞こえにくいという話を聞きます。
反対に、頭の上で鳴らされると心臓に悪いし驚くなどの声もあります。それから、防災行政無線で時報を鳴らす必要はないのではないかという意見も聞きます。
個人的な意見ですが、今回の震災で感じた事は、災害時に避難勧告や避難指示等の情報をしっかり流してほしいという事です。

(聞き手)
こちらの地域では、震災時の防災行政無線の調子はどうだったのでしょうか。

(宇佐美様)
防災行政無線は全く聞こえず、また、使用出来ませんでした。
ですが、震災後、設置箇所が増え、増設当初は聞こえにくい部分もありましたが、その後、市でテストして改善したので、今はよく聞こえています。
また、震災後の情報提供についての希望ですが、情報を集約する場所を市役所に設けたらいいと思います。
例えば、地区の人間が情報を聞きに行って、ライフラインの復旧目途や、水などはどこで支給されるか、どのように与えるのかなどの情報を確認出来る場を設けてほしいです。
今回で言うと、ガソリンはどこに行くと確保出来るかなどの情報がそれに相当しますが、そうした情報を提供してくれる窓口をすぐ立ち上げるなどの広報のサービスをしてほしいです。